京都の東に、百万遍というところがあります。大きめの交差点の名前にもなっている由緒正しい地名です。交差点の南東の一角には低い石垣が連なっていて、そこには様々な立て看板が並んでいました。学生サークルの宣伝やイベントの告知、平和を訴えるものなどです。京都大学にはそういった昔ながらのキャンパスの風景が残っていました。
私はそこで演劇と出会いました。小・中・高と10年間野球に打ち込んできた私にとって非常に刺激的な日々でした。京大には学生が自由に上演できるスペースはなく、ライブや演劇は学生による「自治空間」で行われていました。それが、吉田尞や西部講堂との出会いでした。当時、吉田尞は築100年を迎えようという時期で、木造として最古の学生寮でした。しかし、恒常的に大学から取り壊しと立て直しの要求が来ており、寮生たちが存続を訴え、耐震補強案を出して交渉していました。
私は、ある程度かつての学生運動についての知識と興味があったので、その独特の空気をある種面白がっていました。表現活動のことだけでいうなら、自由でざっくばらんな空間があることが嬉しかったことを覚えています。また、所属していた劇団ケッペキは個性的な集団でありました。団員が自由に企画案を出し、全員で検討するのですが、厳しい指摘が相次ぎ、何週にもわたって企画を練り続けることが常でした。通し稽古にはほとんどの団員が出席し、ひとりずつ意見を述べていきます。ほとんど毎回激しい言葉が飛び交い、真剣そのものでした。2023年の今では、いかに学生同士といえど問題になってしまうぐらいの熱がありました。京都には大学生が多く、他大学の学生とも交流し刺激を受けました。京都芸術大学に名が変わった京都造形芸術大、同志社大、立命館大などなど。その当時知り合った人々の中には、現在プロの俳優や演出家、映画監督として活躍している同世代が数多くいます。
私は就職するにあたり、二度と演劇をやるまい、やってはいけない、と思いました。周囲には強い決意のもと演劇や創作活動を続ける人がいるなかで、私はその道を志すことができなかったのだ、という敗北の思いを抱え、2013年に東京にやってきました。
ところが、私はたった2年で演劇活動を再開してしまいました。テレビの会社で出会った先輩が、演劇の脚本を書きたい、と言っており、色々な話をするうちに2人で芝居を作ることになったのです。その先輩というのが、この作品の原作となる戯曲を書いた出口明です。執筆にあたり、2人で吉田尞や西部講堂を訪れました。ずいぶん早く戻ってきてしまった、と内心思いましたが、気にしないことにしました。
自治空間につきものなのは落書きやビラです。いつのものともわからないメッセージがそこかしこに書かれています。ビラは独特の書体で書かれ、「斗争」ですとか「ベ平連」などの文字が並んでいます。我々は、その壁の落書きは「別れのメッセージ」であり尞の伝統になっている、という架空の設定を盛り込みました。卒業の時の寄せ書きのように。あるいは辞世の句のように。
何か気の利いたことを書きたい、と思う人もいれば、当たり障りのないことを書いて済ませてしまおう、という人もいるでしょう。なかには、その一文に己の才と覚悟が現れる、生半可なことは一文字たりとも書けないぞ、というくらいに気合を入れる人もいるかもしれない。そのことを通じて、別れのときに何を考え、どう行動するかを描けないか、そう考えたのです。
『うかうかと終焉』の初演は、2人の演劇ユニット「芝熊」の旗揚げ公演として、中野駅近くの、地下にある60席くらいの小劇場で上演しました。京都からケッペキの先輩や後輩が見に来てくれました。吉田尞に10年いた演劇関係者も、わざわざ見に来てくれました。ある後輩には「旗揚げなのに卒業公演みたいですね」と言われました。まあ、そういうことだったのかもしれません。
ありがたいことに、この戯曲は日本劇作家協会の新人戯曲賞をいただき、各所の大学生によって上演をしていただく機会も得ました。そしてひょんなことから、今回映画にまでなりました。まったく予想もしていなかった展開に、ただ驚き、感謝しています。
とはいえ、これは物語ですからフィクションです。学生自治尞は重要なモチーフのひとつではありますが、実際の出来事を描いているわけではありません。そもそも、劇中の学生寮は廃寮が決まっています。ですが、吉田尞はそうではありません。退去を命じる大学側に対し、尞の存続を訴える人々が現在も運動を続けているのです。それに、かつてより数は減ったかもしれませんが、全国に残る学生自治尞でも多くの学生が奮闘しているものと思います。実際の学生自治尞に興味がある方は、ぜひお調べになってみてください。彼らはきっと「うかうか」もしていないし、「終焉」もしていないことでしょう。
監督・脚本・原作 大田雄史